聾唖の画家、
    大前静
『ひな祭り』
初孫の初節句に。
  
  エパタ教会1 
エパタ教会 2
石田牧師
ルーテル教会

代表作『連翹』。
こんなに美しい人を見たことがない。神様に愛されていたからなのでしょう。
しかも才能に溢れ、天使のように美しい心を持っていた。
このお顔を見るだけで涙ぐんでしまいそう。  
あまりにも早く亡くなったから(享年62歳)、まだ小さかった私はなにもやってあげられなかった。
だから私にできる孝行は、画家大前静と版画家船崎光治郎の業績を世の中にお知らせすること。
 
長女まゆみと。
 
左から船崎光次郎、大前肇、洋風のお帽子の方不明、
船崎(大前)静、まゆみ、多分大前操子、大前もと(長女)

美術の才能に溢れた素晴らしい一家だったのだと
想像する。
   
お便りご紹介      
2011年11月9日13:30

■大前(船崎)静子先生に関する質問

「マリカ日記」などを拝見し、メールをさせて頂きました。
私は、ごく個人的に大正から昭和初期にかけての聴覚障害児教育の資料調査をしている者です。
調査内容は「口話法教育」を主としているため、その過程で「大前(船崎)静子」先生の
お名前を知りました。
最近の先行研究では、静子先生は戦前、樺太で聾学校の教師をされていたことが確認されています。
(公的記録が散逸状態のため、口述記録のみなのですが、お写真が複数残されています)
当時の聾唖協会の機関紙「聾唖界」にも樺太での生活を抒情豊かに発表されておられ、
豊かな生活ぶりが伺える内容でした。
平成23年8月23日付け日記ではお母様が樺太(豊原)の様子を懐かしむ・・・
といった発言があり、こちらに深い興味をおぼえました。

もし差支えがないようでしたら、当時の樺太でのご生活、現存する静子先生の絵画の状況など
ご質問できればと、思い切ってメールを差し上げた次第です。

現在のところ、特に文書やWEB上に公表する予定はありません。
ただ、同じく古い聴覚障害関連(聾者)の歴史を研究されておられる方には
この貴重な情報を共有できれば・・・と考えています。
初見の方に長文のメールにて失礼いたしました。
お忙しい中を恐縮ですが、ご返信頂戴できれば幸いに存じます。
どうぞよろしくお願いいたします。  
上記のようなご連絡をいただいたので、母を訪ねてその旨知らせる。
すると母は、「その方には直接お話ししてお伝えしないといけないわね」
とのことだ。
樺太へ行った時、母はわずか6歳。
7歳の終わりか8歳の始めまで現地にいたことになる。
そんなに昔の記憶なのに、覚えていることはたくさんあるようだ。
詳細はその方に直接お目にかかってお話ししたいとのことだが、
概要はこうだ。

王子製紙をスポンサーとする画家で、仕事先の樺太へ妻子を
呼び寄せた時にはすでに、樺太に現地妻がいた。
子供たちは船崎光治郎の新しい妻とその子供たちと一緒に暮らし、
大前静は教会で暮らしていたという衝撃の事実。
上記の方かあお問い合わせがなければ、母に樺太時代のことを聞くことも
なかったから知らずにいただろうことがわかってよかったのだと思う。
どんなつらいことであっても真実は知らなければならない。
このサイトをつくったことをお知らせしたら、以下のお返事をいただいた。
 
日付: 2011年11月15日13:13

ご指摘のとおり「船崎光次郎」氏に関してはかなり資料が現存し、割合に調査がはかどります。
なかでも朝日新聞に当時の聴覚障害児教育への意見を投稿したりと、
「ずいぶんと障害に理解のある旦那さまなのだなぁ・・・」
などと、私分の文献調査では思い込んでおりましたので、
今回のサイト記事の見、新たな情報を得ながらも複雑な気持ちです。

大前静先生に関してはご本人の筆による投稿文が第一資料となっており、
文体からは聾者というよりも「難聴者」の感を受けています。

ご希望の資料は原本が無いため、複写のリコピーになります。
私の書き込みなどがそのまま写ってしまうのですが、何卒お許しください。

大前静先生の勤務記録で表立って判明しているのは下記のとおりです。

 ■樺太盲唖学校
 ■昭和10年〜13年? 奉職 (※公的記録なし)

 ■日本聾話学校
 ■大正12年4月1日〜昭和2年3月31日 奉職

大前静先生のサイトは先行研究者の方にお知らせする予定です。
「樺太盲唖学校」に関してはこちらの方のほうが遥かに詳しいので、
私では不足している聞き取り調査の件など、何らかの良き情報が得られることと思います。
 上記メールに関してのコメント:

朝日新聞に当時の聴覚障害児教育への意見を投稿したり」というのは聞き捨てならない情報。
その投稿記事は残っているのだろうか。是非読んでみたい。

「理解のある旦那さま」なんて、とんでもない。
樺太に現地妻をつくり、結局挙句の果てに静を離縁してしまい、傷心の静を一人で東京へ帰す
などというのはひどい冷血漢。
お蔭で、長女と次女は母親である静と別れて船崎光治郎の親族のいる京都へ預けられ、父、母、上の
二人の子供、一番下の子供がそれぞれ4カ所に離別してしまった。
今まで一緒に住んでいた家族が4カ所に分かれるなんで。
それほど犠牲を強いることになった、船崎光治郎の現地妻に対する愛はそれほど強いものだったのか。
船崎光治郎はまだ年端もいかない末娘を腕に抱いて、汽車でプロテスタントのキリスト教宣教師のところへ
連れて行き、その時に長女も一緒だった。次女はまだ小さかったので豊原で待っていた。
南へ行ったといういうから、大泊だったのだろう。船が出るところと言っていた。
小学校1年生だった長女は自分の小さな妹が父親から宣教師に渡されるのをしっかりと見ていた。
だから後年、その妹に対して格別の感情を持っているのだろう。
分かれて育ったのにこの3姉妹はほとんど顔が同じだ。名字が違い、育った場所も違うのに、
同じ両親の子だから同じように育つのだ。

「聾者というよりも『難聴者』の感を受けています」

いいえ、完璧な聾者でした。病気で聴覚を失ってからというもの、生涯を無音の中で過ごしました。
だから雑音に惑わされることもなく、心の静寂の中で神様と対話をしながら、絵画に心を打ちこめた。
口話法は静のような聾者になんと大きな喜びを与えたことだろう。
2011年12月13日12:06

以下のような質問が来た:
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スナップの女性に関して
  ご長女(まゆみさん)を抱かれた集合写真、
  手前一番右側の女性は「大前」姓の可能性が高いのでしょうか? 

答え:大前家の当主、大前琴さんです。
大前家は男の子がいなかったため、長女の琴さんが養子を取って大前家を継ぎました。
間の姉妹が皆、亡くなってしまったため、20歳ほど歳が離れている一番末の静子さんをいつも
かわいがっていました。
琴さんは日本女子大第一回生で、女性として日本で初めての大学生になりました。
神戸から単身上京して、在学中は目白にある学生寮に生活していました。
その後、日本女子大の事務局に勤務するようになりました。
神戸(明石)にある大前の実家は羽振りが良く、そのようなことを娘にさせられる余裕がありました。
末の娘は耳が悪かったので、絵の先生に師事させました。
親のその配慮のお蔭で静子さんは、どんどんその才能を伸ばしていきました。
琴さんの肩にもたれかかっているのは、琴さんの長女操子で、日本女子大で多分フランス文学かなにかを
学んだと聞いています。
後にろうけつ染のプロになり、静子さんと影響し合って良い作品を残しました。
日本女子大の級友には大橋元運輸大臣夫人がいて、操子さんの最期の作品は、これまた級友で
後に中曽根(元)総理大臣の夫人となったXX子さんのろうけつ染のパーティー・ドレスでした。
帯や着物と違い、ドレスは背中に線があるので、左右の柄を揃えるのに苦労したと、私が大学生の頃に
話してくれたのを覚えています。
静子さんと光次郎さんの間にいる学生服は、大前肇で、この方が生まれたために、大前家は跡取りが
できました。
現在は肇さんの長男の明生さんが大前家の本家の当代です。
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中国服?らしき服装に関して
  【1】のお写真の右下のスナップですが、
  同時代の聾者の方の関係アルバムからも発見されています。
  ただし、注釈が無いもののようです。
  もし、下部の文字(・・・モデル?・・・)が判読可能でしたら
  教えていただければ幸いです。
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答え:「十二年の夏モデルの真似して」と書いてあります。
ということは大正12年のことですね。

それから、このようなコメントをいただきました:

> 船崎氏とのご関係ですが、
> この時代、聴覚障害女性と(障害の無い)一般男性との
> 「自由恋愛による結婚
」は大変に稀で、
> そのごく少数でさえも不幸な結末となった例が多いのが実状でした。
> 静子先生はこれらとは異なり、
> 幸せなご生活だったのだなぁ・・・と思い込んでいたため、
> いろいろと事実を教えていただき、複雑な気持ちです。
>   (@_@;)

静子さんは最初は幸せだったのだと思います。
しかし、船崎光治郎が頻繁に樺太へ行くようになってから、事情が変わったのだと思います。
樺太での光次郎の活動を見ると、水を得た魚のように自由に自分の才能を開花させています。
学術分野の植物図鑑の絵を担当したために野山を歩き、また王子製紙の関係者の肖像画を公開で描く
パフォーマンス的なアーチストを演じたり。
東京から来た男ということで当然、もてただろうし、画家だから裸婦も描いたかもしれない。



> 静子先生は「大泊」居住の情報しか得ていなかったのですが、
> 昭和10年代以降は「豊原」に単身で居住されておられたのでしょうか?
> 昭和12年夏ごろ、大泊近くの「貝塚村」
> 盲唖学校生徒たちと海水浴に出かけた集合写真が残っておるため
> さまざまな理由から住居が不安定だったのかも・・・?とも思っています。

答え:平成23年12月13日
本日、郵便受けに入っていた封筒を開けるとなんと、上記の答えになっていました。
こんなこと神様でないとできないことです。
静子さんにはいつも神様がついていたことを実感します。
静子さん自身が天使ですから。
主に担われて 池田周造生涯の記』(池田芙沙子著)の中に、池田周造が宣教師となって樺太の大泊に
昭和8年に伝道に行った旨が記されていました。
昭和12年に大泊の貝塚村へ静子さんが行ったのは、その牧師のところにいる末の娘に会うため。
海水浴は口実。ダミー。
母親としての愛情が海水浴を隠れ蓑にして、子供奪還作戦をしていた。

大泊教会が発足したのが昭和12年2月4日。
しかし、その時は長女のまゆみがすでに7歳になっているから、当然、豊原で教会に身を寄せていた頃。
静子さんは光次郎一家と別に行動していた。
すでにその時は一番下の子供、芙沙子を池田牧師に養女に出した後。
だからこそ、海水浴を口実に末娘の芙沙子を見に行ったのだ。
盲唖学校の生徒たちと一緒に海水浴と言えば、大泊へ行く理由になったのだろう。
光次郎の家の様子は、家がやっと見えるくらいのところに立って見ていたという静子さんだが、大泊は
汽車で行かないといけない距離だから、口実をつくって会いに来たのだ。
静子さんが光次郎の新しい妻と同じ屋根の下で暮らすということはまったくありえない。
三人の子供、しかも、6歳、4歳、2歳の子供を連れて東京からはるばる樺太へやって来て、
光次郎の現実を目にして、子供を光次郎の元に置き、豊原の教会へ逃げ込んだ。
昭和2年に来た時のあの幸せな樺太のイメージが強かっただろうから、どんなにショックだったことだろう。
幸か不幸か芙沙子さんはまだ2歳だったから、光次郎・静子の記憶がほとんどないまま牧師夫妻を本当の
両親だと思って、宗教的な雰囲気の中で育てられた。

芙沙子さんの書記は生生しい。静子さんの子供への狂おしいほどの愛情が込められている。
光次郎はひどい男だと大前家の人たちが思っているのも無理はない。

以下『主に担われて』より抜粋
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池田家に養女

辺見氏の知人に植物学者、牧野富太郎博士の依頼により、図鑑挿入のため樺太固有の植物を写生に、
東京から来ていた船崎光次郎という一人の画家
がいた。
彼は三人もの娘がいたが、いろいろな事情で
妻と離婚するに当たり、上の二人の娘は妻に、二歳になったばかりの三女芙沙子を、辺見家に里子として
預かってほしいと頼み込まれた辺見夫妻は、すでに二人のお子さんもおり、ひらめいたのが、牧師の家。
「先生はとても子供好き。教会の子供たちも先生を慕っている。身体の弱い奥さんには子供も産めない」
等等、夫妻は早速この話を池田周造夫妻に持ち込むが、若い時、キク江の友人の子供を、一旦は
籍にまで入れながら、周造の留守中に、子供を返したという苦い経験もあり、身長になった二人は、
「そのような事情なら一時お預かりしましょう」
という事で、芙沙子を引き取ることになった。
しかし、画家の妻は、夫の独断によるこの仕方に納得せず
芙沙子を返してほしい
と、再三訪れては周造夫妻を困らせた
そんなある日、芙沙子の笑顔にすっかり魅せられていたキク江は
「必ず大切に育てる」
と母親を説得、耳に聴覚障害があり、幼い子供たちを一人で育てることの大変さをまわりの者達にも
説かれ、やっと納得した彼女は、上の二人の娘だけを連れて後ろ髪惹かれる思いを振り切り、東京に
戻った。

以後、芙沙子は正式に池田家の娘として周造夫人に大切に育てられ、教会の方達にも温かく迎えられ、
思い出深い北国での幼児期を過ごすことができた。
     
     
15年というのは大正のことだろうか。
川本先生とはどなたなのか。 
   どこの海なのか。
     
元東京聾唖学校長小西信八先生   仕事中  仕事中
以前、岩の上にたくさんの海獣が寝そべっているセピア色の写真を見たことがある。
多分古いアルバムの中なのだけれど、今思うと、それが樺太の写真だったのだろう。
今その海獣写真はどこにあるのだろう。
母のお宝の昔のアルバムを捜さなくては。(平成24年1月6日)  
 光次郎という男:
船崎光治郎のことは、ずっとわだかまりを持っていた。
なぜ私の大好きな天使の大前静を捨てたのか。
娘たちが父親なしで育つようなことをしたのか。
末の娘など、まだ小さいうちに牧師の家へ養女に出されてしまい、姉妹が長年にわたり離れ離れで
育ったではないか。
悪い男だ。許せない。
だから自分には母方の祖父はいないものと思い込んできた。
しかし、上の写真の顔を見ていたら、幼少の頃感じた怖さはあまりなく、むしろ優しそうな表情なのに
気がついた。
しかもこの人は才能に溢れていたようだ。並みの人ではなかったのだろうと想像する。
今、もし船崎光治郎に会えるのなら、祖父が手掛けたいろいろな作品を解説つきで見てみたい。  
光次郎と静子の離婚:
光次郎が静子と正式に離婚したのは聞く話によると次女が女学校に入るころだとのこと。
入学の時から大前姓になったとのこと。昭和20年
よくそんな時代に女学校へ行っていたものだ。
大前家は東京大空襲ですべて焼け出され、しかし、古いアルバムだけは大切に持って逃げたから、
ここに掲載してある写真がある。
これ以外にも写真は百枚ほどあるけれど、数が多すぎてアップしていない。 

光次郎の作品のある場所:
船崎光治郎の『海馬嶋烏帽子岩』という作品、多分樺太で画いただろう1940 木版,多色刷
(29.9×22.4)が神奈川県立近代美術館にあることがわかった。英題:Eboshi Rock in Kaiba Island

私の手元に船崎光次郎が昭和22年9月15日に富岳本社から発行した『高山花譜』がある。
夢中で前頁カメラに収めた。あとがきは新憲法施行の同年5月3日に書かれている。
あのような混乱の時代に、よく花の木版画集など出したものだ。
それは今思うに、ひとえに第二の故郷となった失われた北方日本領への強い愛ではなかっただろうか。
平和な樺太で千島桔梗や、色丹草、利尻ヒナゲシをはじめとする北方地域にしか見られない植物を
日々描いていた光次郎は、北方の植物を木版画にしてこの一冊に閉じ込めることで樺太において
展開された自分の人生の大きな部分を封印したのだと思う。
いずれ、絵をアップロードしたい。   

大正期新興美術同盟というところで、第一作家同盟の赤人舎というところに、 松田操、榎本三朗と共に
船崎光治郎の名前がでてきた。(1922年6月末結成)

版画『南房総国定公園』というのもあるようだ。
そういえば御宿に住んでいたという記憶があるので、その頃の作品なのだろう。
私はそこへ海水浴に母に連れられて行った記憶がある。
でもふうばや他の人たちは記憶の中にいなくて、母と二人。そんなに遠くまで二人で船崎光治郎に
会うために海水浴に行ったのだろうか。
しかも泊まった記憶がある。
不思議なことに船崎光治郎の他の子供たちや家族にはまったく会わなかった。
どうしてだろう。単に覚えていなかっただけなのだろうか。
私は髪の毛の長い大きなあの男の人が嫌いだった。
子供心に警戒心を持っていた。うちに泊まりに来た時はなおさらだった。
泣いて帰ってもらうように要求したくらい嫌いだった。
どこか許せないところがあったのだろう。
あの馴れ馴れしいおっさんは誰なんだという気持ちがあった。
母方の祖父とは青天の霹靂。ずっと後になってから知ったことだった。
どうしてその時にこの人は「大前静の離婚した夫でむっちゃんのおじいさんにあたりますよ」と
ちゃんと紹介しなかったのだろう。
「孫のむっちゃんに会いたいからわざわざ遠くから会いにきたから、抱っこさせてあげて」ときちんと
説明してくれていたら理解できなくはなかった。
隠すような情報だろうか。
母に当たり前のように馴れ馴れしく話かけてきているあの態度が潔癖な子供には許せなかった。
でももう時効。
御宿だと思ったのは実は茂原だったようだ。
  「茂原在住の木版家船崎光治郎と知り合い」という文章が、版画家金子周二の説明に出てくるからだ。
「同氏が主催する版画を創る会の会員になった」と書いてあるということは、船崎光治郎は、そのような
会を結成していたようだ。
金子周二が「茂原在住の版画家船崎光次郎を知った」のは1957年だったそうだ。

新収蔵作品店 写楽、夢二そして房総ゆかりの作家たち」というところに「版画をつくる会寄贈」という
のがあるけれど、船崎光次郎の作品は遺族、つまり母の異母兄弟たちによって船崎光次郎の死後
千葉市美術館に寄贈されたのだろう。
その目録の日付が平成21年だから、今からわずか2年前。
私は数年前のある日、雑事で千葉県庁のあたりへ行く用事があった。せっかく千葉くんだりまで来たのだから
急いで帰る必要もない、美術館でも見て行こうと思い、千葉美術館に入った。
その時はちょうど、フランスのバルビゾン派の展示をしていて、ミレーなどを見て帰ったのを覚えている。
それと同じ建物の中に船崎光治郎の絵が貯蔵されていたのだ。
なんたること。
その時に知っていればまた違った気持ちでその時間を過ごしたことだろう。
 千葉県野田市美術館にも貯蔵されているのがわかった。
どうにかしてここに貯蔵されている船崎光治郎の作品を見ることはできるだろうか。
船崎光治郎:『房総風物衆1』(1959)、『房総風物衆2』(1959)、『房総風物衆3』(1960)。
野田市立図書館。 
どうせ、写真を撮らせてくれないのだろう。
目に焼き付けるだけでは不十分だから作品を撮って母に持って帰りたい。
母は新宿駅西口へ行くだけでも月に一度の大仕事のように感じてしまうくらいだから、まして千葉県へいくなど
月へ行くより遠いと思うだろう。
これがローマ市内のすべての美術館を1週間かけて一人で歩きまわったあの行動力に溢れた同じ人とは
思えない。
船崎光治郎が樺太業書5『図説樺太の高山植物上巻』(樺太庁)というのを書いていたというのも
興味深い。樺太民政署出版ということは、公的刊行物だ。
聞くところによると最初は郵政省の人で、配達をしていたというではないか。
その人が画家大前静と知り合って結婚したことで、潔く本業を放り投げて、絵筆による生活を選んだ
ということはものすごい決断だったと思う。
その代り、樺太にこだわり、樺太の植物については極めたのだと思う。

船崎光治郎『高山花譜 No.1』(昭和49年12月25日、作品11x7,5他、限200、印、刷込みサイン、
自刻自摺自家版全21作品、木版というのを出していて、3万5千円でネットで売られているのを見て
びっくり。
この人は高山植物にこだわっていたのだ。

樺太を引き上げたのはいつだったのかよくわからない。
しかし、樺太から北海道へ行ったのは大変なことだった、馬や蜂を扱う人々は動物や昆虫が死んで
しまわないようにしなければならなかったから、必死だったというような話をしてくれたのは、なんと、
芙沙子さんだった。
まだものごころついていない時に樺太にいたはずなのに、芙沙子さんはどうしてそのようなことを
知っていたのだろう。
それとも、その後もずっと樺太にいたのだろうか。
芙沙子さんが自費出版した自伝をじっくり読んでみたいものだ。
船崎光治郎は千葉へ移ってからは、こんどは千葉の事物にしっかりと目を据えて観察していたようだ。

映画『樺太 1945年夏氷雪の門』を見ると、非戦闘員が意味もなくソ連兵に殺され、また、北海道に
避難民を満載した船舶が「国籍不明」の潜水艦により爆撃されて、海の藻屑となっているから、
間を。
ポスダム条約で敗戦を受け入れ武装放棄したというのに、ソ連はまだ軍事行動をやめず、言ったせりふは
「敗戦国には国際法などいらない」とのたまtって、ソ連兵は白旗を上げて終結交渉に来た代表団を殺してしまう。
だからソ連は自分の非を十分に理解しているからこそ、この映画を上映禁止にしていた。
なぜこのような映画をまだ見ていなかったのか自分でも信じらないけれど、神様が11月9日に聾唖画家
大前静の樺太時代についてのお問合せメールを送って下さったことで、急に私は樺太に目が開いた。
昨日大前静樺太サイトを作ったのだが、なんと調べると船崎光次郎についての情報が意外と多いことに
気がついた。
カラー写真のなかったあの時代、樺太の高山植物を精密に模写して出版していた船崎光次郎の文化的、
教育的貢献
はなんと大きなものだったのだろうと思ったら涙ぐみたくなった。
母の一家はとても良い時代に樺太に住んでいたのだと思う。
母が話す樺太は美しく平和そのものだから。
『樺太 1945年夏氷雪の門』の映画を世界に公開して、日本は世界の世論を味方につけるのが今、
日本の政府がやらなければならないことなのではないか。
北方4島ならぬ、樺太を含む旧日本領を取り戻すべきだ。
高校など学校教育の場での映画鑑賞会で取り上げるのにふさわしい作品。
馬鹿ハリウッドものを見せるよりこのようなものこそ生徒たちに見てほしい。
北海道植物関連文献目録に船崎光治郎の名前を見出す。
樺太や北方領土が日本だった頃の北の植物についての研究はこんなに盛んだったのかと感心した。

近代版画というジャンルに分類され、船崎光治郎の版画が8種類紹介されているのを知った。
好きなことを極めていくと、いつか自分がその専門家になっている。 
   サイト管理人:マリカ  連絡先