思い出の新宿歌舞伎町まつり なつかしいあの一コマ。青春の歌舞伎町ふるさとまつり。 平成23年おまつり
歌舞伎町から世界へと送り出してくれた。ありがとう! チラシ
     
元ムーラン・ルージュ・ダンサーもその頃は日本にいた フランス公演チーム「忠義桜」。なつかしい下山君  ハワイアンは「真珠貝の歌」を定番にしていた 
     
ダンス・コンテスト参加者に優勝者が発表される瞬間  玉すだれの内山佐一師匠は弟子とフランスとドミニカに同行  「イン・ザ・ムード」の曲でタップ。衣装はやっちゃんのおかあさん
     
朝香組のちびっこが千葉から来て活躍してくれた。  みんなの前でデモしているということは東北の哲君、入賞か  仮設テントの楽屋の中。違う世代が一緒にラインダンス 
     
元国体アイスダンス選手のアクロバット・ペア・ダンス  この年は初めてステージカーだったので、空間がなかった  古典的な発想で斬新。背景の梅の絵、準備がすごい 
     
近所のお店のダンサーがお店のショーをそのままやったかも  優勝者山形県高橋直人の空中回転。筑波大体育学科卒。   
     
トウシューズの人あり、袴の人(元優勝者)あり。  ヒップホップの人は普段服を衣装にしてしまう  ジャズダンスやポンポンを使ったエアロビクス 
 フラメンコ    
    左2枚は歌舞伎町がライブハウスでダンス・ショーを企画して
下さった時。 よくよく見ると、ハイヒールなんか履いて踊って
いるからびっくり。
ルイジのジャズ・バレエの『マジック・バード』をなんと
ショーダンスとしてやってしまったようだ。オソロシイこと!

しかも衣装はブラックにお光ものときている。
どうしてそういうことするわけ。でも、これ多分1984年くらいの
ことだと思うから、許してほしい。

芸術ですなんて肩肘張らずに、気楽に楽しく
『マジック・バード』を踊っていた当時はやはり、
青春していたのかな。
羽なしのレオタードで踊った埼玉

写真捜して徐々にアップ予定。初期の頃のプロによるいい写真が見つからなくて、これは1990年とか1991年、1996年頃の写真。
 
 
新宿歌舞伎町まつりへの最初の参加は1983年のはず。
というのは、その年には「ルイジ・オン・ステージ」(1982年)の翌年やった「フランシス・ダンスコンサート」の
出演ダンサーが写っている写真を見た記憶があるから。
当時の写真は、舞踊写真の専門家、池上直哉先生が撮影していたから、白黒写真で、
非常に質が良いものだった。
忘れもしない、歌舞伎町振興組合の、まつり実行委員長の柴田氏
柴田氏が1年近く前から毎年、「ああ、忙しい、まつりだ、まつりだ」と騒いでいて下さったから、歌舞伎町祭りはあった。

1983年:歌舞伎町にレオタード・ギャル100名が繰り出して、ルイジ・エクササイズのプリ・ウォームを踊る。
「踊り子に触らないで下さい」
とコマ劇場前に綱を張りめぐらし、警官が大勢警護に当たっていたのがなつかしい。
ルイジ・ジャズ・ダンスというもっとも健康的で清らかなものを、天下の歌舞伎町の夜空の下で
やってしまったというのは本当にすごい企画だった。
歌舞伎町のネオンを見上げながら、野外でルイジを踊るというのもなかなか気分がよかった。
NHKのニュースで取り上げられた。
新聞の社会面でも。以後、柴田氏が各新聞社の社会部記者に情報を流し、取材に来るように
して下さったから、新宿歌舞伎町まつりは柴田氏がやっている間は毎年取材され、記事になった
大新宿まつりと違い、新宿歌舞伎町まつりは、歌舞伎町だけのこと。
この日だけは、通常の客筋とまったく別の人々が集まり、つまり、女子供、父兄、友人、親戚縁者、
踊り関係の人などで、よどんだ空気を一瞬清らかにしたかのようなさわやかな風が吹いた。
第1回オール・ジャパン・ダンス・コンテスト」の優勝者:新納悟
ジャンルは舞踏。
あと数分長かったら皮膚呼吸ができずに死んでしまったかもしれない金粉ダンサーとか、
銀のパンツ1枚で躍り出て来たモダン・ダンスのなんとか君が勢い余って、舞台から落ちてしまったとか、
着物を羽織って出てきて思い切りモダン・バレエを踊ったカミヤ女史とか、いたかもしれない。
多分「サテン・ドール」を踊ったのだと思うけれど、カミソールとツンだけの衣装で踊り、
思い切り足を上げたものだから、その瞬間が「セクシー・フォーカス」に出ていたと後から知り、
そんな雑誌があることに驚愕する。翌年より、ここへ来れば思う存分、露出度の多い写真が撮れるとばかり、
カメラ小僧が大挙して仮設舞台のまわりを取り囲むようになった。
私は柴田氏と企画し、実際にキャスティングをして、ゲストを集め、プログラムを作り、踊りを振付して、
指導し、衣装を用意し、コンテストの参加者を募り、曲を集めて、ラジオたんぱのスタッフに渡したり、
打ち合わせをするというプロデューサーをしながら自分も踊り、コンテストの審査委員もしていた。
しかも、柴田氏があらかじめ声をかけて下さった店舗に行き、景品の受け取りまでやった。
ある時など、生徒にサンタクロースのような大きな袋を持たせ、西武新宿ぺぺのお店何軒もから
たくさん衣料品をいただいてきた。
売れ残ったものはすべて景品にお願いしますと柴田氏から話が入っていたから、どの店舗もとても
気前がよかった。

1984年:「ディンゴ・カンディード」をやった記憶がある。初演は12チャンネルだかの
「レッツ郷ジャズ・ダンス」(郷ひろみさんの相手役の司会者は多分村田香織だと思う。
その年に、原田知世主演の「愛情物語」(角川映画)にフランシス・ローチが出て、劇中劇の中で、
原田知世とまったく同じ振り付けを踊るのが村田香織で、当時かなり活躍していた。
「レッツ郷ジャズ・ダンス」の時は、後にエスモード・ジャポンの社長夫人になったマリーさん、
南アフリカとスウェーデン混血のモデル・ダンサー、ケネス君、フラメンコの斉藤克己さん、社交ダンスで
A級ライセンスの山口先生、静岡の真理子さん、平塚の祐子さん、大阪軍団など
いろいろな個性的な人がいたからおもしろい踊りになった。
群舞だけれど個性があって、ミュージカルの一部を見ているようだった。
ところで、歌舞伎町まつりの食事は、とんかつか、おそばかどちらかの食券をいただいた。
喫茶券というのはまた別で、ご丁寧にそれも下さった。
しかも、それらは1週間有効なのだ。だから、その日にあえて使わなくてもよかった。
おまつりの日は混んでいるし、衣装の片づけなどであわただしかったから、私は大抵、後日
食べに行った。サウナ券しかり。
当時のグリーンサウナは、女性用のサウナの受付に、「XX子を呼び出せ」とか言ってくるXXX風の
おっさんや、鋭いおにいさんがしょっちゅう来ては、受付嬢に丁重に断られていた。
着替えながら、それらの声が聞こえて、おもしろかった。
歌舞伎町の真ん中にあるサウナの客筋は、なんかこう、とても独特だった。
それも社会勉強だから楽しかった。

第2回オール・ジャパン・ダンス・コンテスト」の優勝者:高橋直人
ダンスコンテストの審査委員長は私がするようになった。
外部から偉い先生を呼ぶとお金がかかるし、今回は優勝者はなしなどと、昨年とんでもない審査発表を
したからだ。
これはおまつり。
眉間にしわを寄せて、人の踊りを批判的に見ながらミスを見つけてはいい気味とばかりに小躍りして
落とすコンクールとは違うのだから、一生懸命やった人に、おめでとうと言って素敵な商品をあげればいい。
新宿にある某旅行会社がニューヨーク往復航空券を出してくれたのだから、優勝者なしなんて
言ったらだめなのだ。
そんなことしたら、ダンス・コンテストの信憑性が問われるから気前よく景品を出さないとならない。
おまつりなのだから、楽しんでもらわないと。タダでもらったものを、誰かにあげてなにが惜しいものか。
堅物は困る。ムキになって審査しようとするから。おまつりの中で行われるダンス・コンテストに
XX舞踊協会の理事は似合わない。といっても、初めての年に最初に声をかけたのは私。
昨年のミス・ブッキングはすべて私の責任。

1985年:今や押しも押されぬサムさんが野球帽をかぶって司会をしてくれた。
当時はまだ目黒の体育館でブレイク・ダンス仲間の男の子たちを大勢集めて練習をしていた。
多分、チャンプの後のリフラフの頃で、TRFより前の時代。
1986年:当時ペンキ屋だったタコが 「第3回オール・ジャパン・ダンス・コンテスト」で優勝して、その後
あれよあれよという間に所属グループZOOがメジャーデビューし、JR東日本のCMもやり、
そしてブレイク・ダンス・チームとして初めて天下の紅白歌合戦に出場した。
柴田氏は、タコの出世をそれこそ、自分の子供の出世のように喜んでいた。
柴田氏は、新宿歌舞伎町の舞台から飛びたたせるのが好きだった。
音源をみんなから集めて、サムさんから紹介されたデイジクルーの池上本門寺のおだんご屋さんの
息子と原付バイクに二人乗りして、ラジオたんぱへ行き、無事録音を済ませた。
ところが、青山通りで信号待ちをしていたら、自転車で追いかけてきた警官につかまってしまった。
当時私は、しょっちゅう二人乗りをしていたため、点数が全部なくなり、免許停止処分を受け、
講習を受講させられた。

1986年:第4回オール・ジャパン・ダンス・コンテスト」優勝者:西沢モト、広沢コンピのエアロビクス。
この年にジャパン・ダンス・アートをつくり、法人化しこれまでのコンパニア・マリカを改めた。

1987年:何をやったのか覚えていない。この年は交通事故をしたので、私は新宿歌舞伎町まつりでは
踊らないで、ピンクのドレスで”when you are smiling"のジャズを歌い、コンテストの審査員をしただけ
の気がする。 「第5回オール・ジャパン・ダンス・コンテスト」優勝者を思い出したら明記したい。

1988年国際芸能祭参加(スイス)へ行く時、「歌舞伎町から世界へ。頑張ってこいよ」と
柴田氏は送り出してくれた。
襟に新宿歌舞伎町と染め抜いた、深緑色の法被、木股を20組もお貸し下さったので、
私たちはスイスで日本の踊りの中で、まつりの場面をこの衣裳でやった。
そして、帰って来た時、凱旋公演だといって、「八木節」をやらせて下さった。
第6回オール・ジャパン・ダンス・コンテスト

1988年国際芸能祭参加(スペイン)から帰り、「越後獅子」他なにかをやったように感じる。
コンテストは誰が優勝したのだろう。
どうしてこのような大切なことを記録しておかなかったのだろうと悔やまれる。
ともかく、やり捨てにしてきた。日記もつけていない。
だから、これに出ていた出演者の誰かが連絡をしてきてくれない限り、わからない。

1989年:国際芸能祭参加(フランス)でやっった「忠義桜」とか「元禄花見桜」をやった。
下山君が日本でなにかに出て踊った最後の舞台だったかもしれない。
その後下山君はスペインへ行き、闘牛士となり、それからのことは日本人初の闘牛士、
日出ずるところからきたマタドール、そして事故、とニューズウィークや、その他のメディアで
報道されたからとおり。

第7回オール・ジャパン・ダンス・コンテストの優勝者を覚えていない。
審査時間のデモには、内山師匠と一番弟子の「南京玉すだれ」他をした記憶がある。
パピイがお面をかぶった東北から来た元体操選手と組んで操り人形を踊ったのは良かった。
猿回しもドラマ性があってよかった。
1分間で技術を披露するだけではなく、その時間内にちゃんと起承転結のドラマを盛り込むのは
もうダンサーというより舞踊家の仕事。

1990年
:「第8回オール・ジャパン・ダンス・コンテスト」の優勝者:ルービー・バーロー(フィリピン、
ケソン・シティ・バレエ団出身のバレリーナ)涙が出るほど上手かった。2位:ロシア人
(大久保1丁目の「ポアント」のバレリーナ。
当時のポアントは、日本で初めてロシア人ダンサーを呼んでショーをしていたから、こういうことも
可能だった。
その頃は本当のバレリーナが来ていたからすごく上手だった。
3位は名古屋から来た男性のダンサーで、東京のダンサーは誰も賞を取れなかったことが、
このダンス・コンテストの公正さを提示したようでかえってよかった。
私の最初の夫、アレキサンドル・コレスニコフにロシア語ラップをさせてロシアへスケート留学していた
ゆきさんにロシア・ダンスをしてもらったのが、ちょっと目新しかったことだろうか。

長い月日の間に、お世話になった方もお亡くなりになった。
歌舞伎町祭りは過去のことと思っていたが、2010年の秋も深まった頃、歌舞伎町鬼王神社のおまつりで、
いにしえの月間たあみなるカバーガールあの人は今という特集というのをやっていて、
インタビューを受けた。歌舞伎町との関連を発表した途端、そうか、「歌舞伎町発世界へと、
この街の商店街が私を世界へ送り出してくれて、帰って来るたびに凱旋公演がてら、
この街にお返しをするということで踊らせていただいていたのだ、この街で踊ることが自分の
原点だったのだ
」ということに気づいた。
今まで自分はいったい何をしていたのだろう。
オフィス・マリカというのを稼働させて、あちこちよその土地のおまつりを営業としてやっていた。
だいたいは、メインに外国人を連れて行って、少人数編成の時は全員外国人、大勢の時はまわりを
日本人でかためるといった具合。
川口のオートレース場のたたらまつり、西川口まつり、羽村まつり、渋谷まつり、横浜どんたく、
長野県なんとか市のおまつり、伊香保まつり、世田谷まつり、戸田まつり、いろいろやったから、
どこで踊ったかももう覚えていない。
その間に、いろいろな国に行くようになり、自分の育った土地、自分を送り出してくれた土地の
おまつりをやらなくなっていた

それでも、一度だけ間違えたように参加したのが、1999年の新宿歌舞伎町まつり。
なぜ参加したのか、理由はよく覚えていない。
柴田氏は体調がすぐれず、もうおまつりの実行員をしていらっしゃらなかった。
柴田氏のいないおまつりはつまらなかった。この年は、ダンス・コンテストをやらず、仮設舞台も設置せず、
ステージ・カーが舞台で、楽屋もコマ劇場前に駐車した車輛の中だったため、なにか勝手が違った。
千葉で元気にやっている朝香軍団が大勢でサポートしてくれた。2番目の夫がインド舞踊の師匠だったので、
ボリウッドのインド風ミュージカル・ダンスを教えてもらい、スンダリ・モーションをやったのが新しかった。
それにしても変な踊りだった。あらゆるものを、ごちゃごちゃとはりつけてひとつのものにしてしまったかんじ。
そのような変なものをやったのも、勉強のうち。
ペア・ダンス、サテン・ドールとサンバなどをしたことが写真で判明できる。
それでもムーラン・ルージュから来たイギリス人金髪ダンサー、ドーン、もう一人の金髪は
フォクシーにいたネイディーンだったのだろうか、今となっては定かではない。
この年は昔の古臭い都立大久保病院が新築されて健康プラザハイジアになり、そこの敷地内でも
踊った記憶がある。

柴田氏は、近所のサウナやバッティング・センター、レストラン、新宿ペペなどからたくさん景品を
もらってきて、参加者に配ってくれた。何十人いても、百人いても、ちゃんとみんなに景品や食券が
行きわたった。
まるで5個のパンで5千人に食事をさせたイエス・キリスト。

歌舞伎町まつりにはさまざまな素敵な思い出がある。
早いところ思い出して、記録しておかないと。
私が記録しなかったら、こんなことはすべて忘れられてしまう。

2011年
10月9日に新宿歌舞伎町祭りがあり、マジック・バードをやろうかな。
マジック・バードいつでもできる状態。
ルイジ・ダンサーをつのりたい。
広さは7メートル×14メートル。
当時と違い今回私は仕切り役でもなんでもなく、十数年ぶりにはじめて参加する一団体。
そこで今年、一兵卒として参加することにし、時間を30分いただいた。
1曲3分として、一曲だけ長いのがあるから、まあ、マジック・バードなど9曲くらいやろうかな。
などと計画を練っている今日この頃。
そうしたら、頑張るダンサーからこんなメッセージが来た:
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日付 2011年7月17日22:17

昨日の練習では、全体の流れのみを理解しただけでしたから
きちんとした振付を覚えなくてはなりません。
ルイジ先生の振付は、頭で覚えるだけでなく、武富士のように体に入れないと
先生の弟子の前で堂々と踊ることができません。

きちんと踊って、表現したいと思ってますのでxxxちゃんと相談します☆
きちんとやって、初めて踊りの神様が認めてくださると思いますので私は挑戦します。
よろしくお願いいたします。(Nxxx)
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やはり、上手なダンサーというのは真面目。
だから上手くなる。反対に下手な子というのは稽古に不真面目。だから上手くならない。
両者の間は開くことはあっても縮まることはないのだと実感。
芸術とエンターテイメントは一緒になってはじめておもしろい。
どちらかだけだと偏るからだめ。この両方を同時にやれてはじめて踊りだと思うし、
私はそういうものをやってきたし、これからもやっていきたい。
だからこそ、踊りはマルチ・ダンサーでないとできない。単品ダンサーが教えると教わった方も、同じく単品ダンサーになるから文化的危機状態に陥る。
多文化が世界の平和をつくると私は信じている。
ところで昔やった『マジック・バード』の写真が出てきた。(marika)
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日付 2011年10月4日20:11

Hi Marika,
Great to hear from you and your team.
Great time for the dancers to enlighten people lights in Tokyo! (Jxxx/Spain)

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